2000年、フィラデルフィア・ユニバーシティ・スクール・オブ・テキスタイル・アンド・サイエンス(Philadelphia University’s School of Textile&Science)のファッションデザイン学科を卒業後、’00〜‘04年までオートクチュールデザイナー、Robert Danesのもとでクチュールの全てのコレクションをDanesと共に制作に携わる。その後、’04年4月に自らのブランドを立ち上げるため日本に帰国 し、同年9月に ”yoshio kubo”としての初のメンズコレクションを発表。大胆なカッティングときめ細かいテクニックで、日常着として使えるモードスタイルを提案。
“ no title ” - “ 無題 ”
当たり前のようにコンセプトをたてインスピレーションを使い服をデザインする。
その思考を一度疑問に思っては駄目なのか。
コンセプトをベースにデザインするのでは無く、あえてコレクションテーマを“ 無題 ”にした。
デザインの思考へのアンチテーゼ。
その姿勢を表現するには「今、在る(ある)物と戦う」男の根底にある姿勢が正しいのではないか。
カッコいい!
共感できるというかなんというか。
どんなコンセプトで写真を?などと聞かれるとつい困ってしまう。
確かに僕もコセプト中心主義の今の作品たちはどうなのかと考えていたところだからだ。
僕のような日常派カメラマンにとって日々常々悩まされるコンセプトという言葉。
いらないという訳ではないけど、日常的に写真を撮っていて、こっからここまでが何々というコンセプトで作った作品です、などと区別が出来るはずが無い。
撮って撮って撮りまくって自分を、自分自身を燃やし続ける。
かの寺山修司が森山さんに「君は写真で何を燃やすのか」と聞いたらしい。
記憶に残っている言葉だから曖昧であるがあしからず。。
写真=日常であり自分。カッコ良くいえば自分史?
コンセプトが無いのがコンセプトです!みたいな?そんな大仰は冗談だけれど、あえて言う必要はないだろと。
コンセプトを聞いて納得できる作品より、パッと見でなんかいいなぁー、と思った作品の方が強い。
その作品の中に見えないコンセプトがあるかもしれない、見えない考えが一杯あるかもしれないが、ヒミツの部分があるからこそ興味を余計そそられる。
そして、それを調べているうちにどんどん深みにはまっていく・・・
ん〜・・・よくまとまらなかったけど、こんな感じでーす!
2 件のコメント:
パッと見重視だよ
わたしは。
つくり手がごちゃごちゃ言う前に
好きでも嫌いでも
ださいでもかっこいいでも
受け手を振り向かせなきゃ
何のコミュニケーションもとれないよね
会社とかでも
やたらながながと打ち合わせがあるけど
ちっちゃい箱の中で
ごちゃごちゃ考えたり
いいあったり
わたしはばからしくって
コンセプトがどうだとか
技法がどうだとか
お偉いさんとか
クリエーター同士でいいあってるのは
みぐるしいし
うっせー。
ってわたし思う
そんなことより
主婦ひとりが
まあかわいい◎
といってくれる方が
よほどうれしいし
お金がまわります。
(主婦ってのはたとえね。
誰かが立ち止まることが大事ってことね)
わたしは
クライアントありきの仕事だから
じぶんを癒したり
発散したりは二の次だけど
ひとりの消費者として
観客として
主婦として
ありつづけることね
だからわたし
大学時代の授業
おもいだすと
鳥肌が立つ
じぶんも含めて
自分たちを特別視してたこと
きもちわる
あの時間が
もの作りの勘違いを
いっぱい生んでた気がしちゃうの
クリエイティブは
もっとたのしく
もっと素直に
わくわくな毎日を
おくりましょ
ふう。
ながながと
おじゃましましたー
そうだよね~
色々考えますわ。
商業的か、否か。ただあまりにも資本主義に引っ張られてグダグダになってるものが多いし、そこはアンテナをビンビンにして言わなきゃいけないと思う。
別に自分を英雄視してるわけじゃないけど、そこの違いがわかっているのにただ流されて行くのは違うと思う。
まー、お互い大変だけど負けないでやっていきましょ。
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